筑後松崎生まれ詩人の野田宇太郎は多くの仕事を残しましたが、

うらぶれゆくふるさと松崎を気にしていました。

彼が残した松崎関連エッセイとふるさと詩歌集の抜粋(母の手鞠)です。



   宇太郎撮影の南構口

筑後松崎

 わたくしの故郷は福岡県の片田舎で、歴史的な表現をすれば筑後久留米の城下町から北九州の小倉へ向う筑前街道の宿駅、松崎である。昔の宿駅と云っても旧道がしだいに廃れてしまつた現在では、一筋の街の形だけをのこしてうらぶれはてた一部落にすぎない。それでも戦前までは近くに陸軍の太刀洗飛行場もあり、また警察もあり女学校もあつてかなり賑やかな、郡内(三井郡)のおもだつた旧邑であつた。
なまじ昔の宿駅で、御番所跡の石垣だけはまだのこつてゐるくらゐの、全くの百姓部落でもないので、語り草にする歴史がないわけではない。しかし松崎の昔を閲明するやうな郷土史書もまだない。出版物などでは歴史類が少いわけではないが、今日の政治家や東京のめまぐるしい変転の姿をみてゐると、全く日本の歴史を無視してゐるといふより他はないやうな事態が眼立つ。歴史の軽視とともに自然の破壊もまた最近は甚しい。さういふ事態に対して反抗する気持が、わたくしの郷土の歴史に対する関心を益々つよめてゐるのかも知れない。


 
筑後松崎は久留米有馬藩に属したところで、『太宰管内志』や『筑後志』などで知られるのは、先づ延宝八年(一六八○)に久留米有馬藩三代目城主忠頼が、二男に当る伊豫守豊範を松崎城一万石に封じたことで、これが史書にあらはれた最初の松崎のやうである。小さくても城下町になつたのだから、その前から要衝だつたのだらう。しかしそれも詳かではない。有馬豊範も『筑後志』によると貞享元年(一六八四)に「主罪によつて改易、囚人と成つて久留米に籠居せらる」とあり、小さい城下町になつたと云つてもその間僅かに四年だつたことがわかる。わたくしの祖先(と云つても曽祖父以来らしいが)の墓は、「しろうち」(城内)と称する地域の堀跡に面した「やぐらどい」(櫓土居)の一角にある。数年前に村の墓地の殆んどは寺のアパート式納骨堂に移されて、それまでの墓地は畑地や住宅地に凌つたが、わたくしは自然と歴史の保護といふ考へもあつてそれに応じてゐない。従つてわたくしの祖先の墓地だけが昔の城内にいかにもその城と関係のあつた家柄のやうに、依然として現存してゐる。そんな家柄でなく、宿場時代は小役人位してゐたやうな点もあるが、歴とした松崎の平民である。
 松崎城が廃城になつてから明治維新まで、二百余年も封建の世がつづいてゐるが、その間に筑後久留米藩には遠候番所といふのが八ヶ所、穀留番所が二十一ヶ所設けられ、その穀留番所の一つが御原郡(後の三井郡)松崎にあつた。現在御番所跡の石垣と云つてゐるのは、その歴史の跡である。そして豊前国小倉から薩摩国坊ノ津へ向ふ九州縦断街道の筑後国内の四つの宿駅のうちの一つにもなつた。城下町が廃れ、再び松崎が宿場町としてよみがへつたのはその時からである。大正時代のわたくしの幼年期には、まだその繁栄の余韻がかすかながら続いてゐた。


 宿駅時代の筑後松崎の名が近世史の一角に現はれるのは、高山彦九郎の遺稿集『高山朽葉集』である。勤王家彦九郎正之は幕吏に追ひつめられて寛政五年(一七九一二)六月に久留米で自刃したが、その前日書きとめ遺書の一つが「松崎の駅の長に問ふて知れ心筑紫の旅のあらまし」で、それには寛政五年六月十三日筑後国御原郡松崎駅に至る。薩の宿割児玉氏なるが柳川屋に宿り居る。立寄て北川氏なるに逢ひ、幸作処に宿りす」と添へ書きがある。彦九郎正之の自刃の原因に松崎でのことがあり、北川といふ同志らしき人物とひそかに曾つてゐるのは明らかだが、柳川屋や幸作といふ者の家(宿)さへ、もう松崎の古老に聞いてもわからない。参勤交代の宿割に来てゐたらしい児玉氏は薩とあるから薩摩の武士だが、北川氏といふのは謎の人物である。旅籠の柳川屋を調ぺるにはいろいろの方法もあり、彦九郎の泊つた家の幸作も、寺の過去帳を詳しくさぐれば或ひは誰の祖先か位は知れようから、大して難かしいことではあるまいが、何しろ今のわたくしには調べようにもその時間がない。そのうちに今日は元気な老人も明日のことは判らず、歴史軽視の現代では、うらぶれたわが故郷とはいへ、またどんな急激な変化に見舞はれるか、知れたものではない。
 変りゆく自分の故郷の歴史に関して、そんないら立たしい気持を抱いてゐるのは、わたくしだけではあるまい。すでにそこには家もなく、ただ祖先の墓があるだけといふのに、やはり故郷につながる心の綱は生涯切れるものでないことを、ちかごろわたくしはつくづくと感じてゐる。


(昭和四十年二月号「歴史読本」)

ふるさとにて

父の墓、母に寄りそひ
母の墓、父に寄りそふ

 わたくしは曽「展墓歌」といふ詩の一節にさう書いたた。いまも父母の墓は筑後松崎の草深い旧城址の一角に、苔むしたま寄りそつて、一人息子のわたくしが年に一度そこを訪れるのを待ってゐる。柳川出身の壇一雄氏の戦後小説『リツ子、その愛、その死』の中に松崎のことが書かれてゐるのを知り檀氏がわたくしの去ったあとの松崎にしばらく住んでゐたのを、何となく奇縁だと思った。その後檀氏と松崎の話をしたこともあるが、ふるさととはさういふものらしい。
 松崎は、筑後街道筋の宿場で、一万石程度ながら久留米有馬藩の分家の城もあつたから、むかしは相当に栄えてゐたらしい。わたくしが生まれ育つた大正時代から昭和初期は郡内(福岡県三井郡)でも第一のにぎやかな町として近隣に知られ、警察署や女学校などもあつて活気を示してゐたが、いまはその女学校が男女共学の三井高等学校になつただけで、警察署は北野といふ町に移り、商家はすたれて宿屋など一軒もないさみしい廃市になつてゐる。大正時代から近くにできた太刀洗飛行場が、終戦とともに面の田畑と化したのが、荒廃に拍車をかけた。
 わたくしの生まれた家なども、もちろんない。ただむかしの城祉に父が定めた祖先のねむる墓所があるだけで、わたくしはこの故郷を忘れぬために、先年行はれた墓地整理のすすめにも応じなかつた。故郷を離れてもう三十年も過ぎ去ったが、墓参りの帰省旅行だけは、どんなに貧しくとも毎年つづけて今日に至つてゐる。時代とともににぎやかになつてゆく故郷の姿ならともかく、目に見えてすたれてゆく故郷の姿をみつめるのは、妙にさみしいものである。そのすたれるばかりの松崎にいまもむかしのままにのこつてゐるものといへば、上町と下町の出はづれの御番所跡の石垣と、下町から中町に通ずる宿場の名残りの鍵形の辻だけである。こんな宿場町の遺構は、今では全国にも珍らしい大切な文化財であり、これを保護しようといふ運動がはじまつてゐることを聞いて、わたくしは他人事ならずうれしかつた。
 こんどの墓参りでは、かねてからわたくしの宿題でもあつた高山彦九郎と長塚節の松崎との関係を、少し調べてみるつもりだつた。相変らず草深い城祉の墓地に父母の墓、祖父母の墓が寄りそつてゐる墓地の掃除を終ると、わたくしは吉岡といふ古老に会つて昔話を聞いた。吉岡老人はわたくしが少年のころは役場に勤めてまだ元気なおじさんだつたが、いまはもう八十歳に手のとどく老爺で、白髪をかむつた皺だらけの顔にだけ少し見覚えがあつた。


 林子平、蒲生君平と共に後世の歴史家が寛政の三奇人とも称した憂国の志士高山彦九郎正之はその遺稿集となつた『高山朽葉集』に、正之が寛政五年(一七九三)六月に久留米藩の医官森嘉善の家で自刃して果てる前、松崎宿の柳川屋といふ旅籠で北川といふ同志らしい人物に曾ひ幸作といふ松崎舅の家(多分これも旅籠だらう)に自分は泊ったことを書いてゐる。それにはまた松崎のことをうたつた遺詠の歌もあつて、それをはじめて『高山朽葉集』で知ったとき、わたくしは思はずどきりとしたものである。わたくしはこの中の柳川屋とか幸作といふ人物について吉岡老人にたづねてみたが、柳川屋といふ宿の在所だけがおぼろにわかつただけで、何分にも寛政時代のこと、幸作といふ人物はわかりさうにもなかつた。御茶屋と称した昔の本陣が明治時代には学校となつてゐたことが判った位が収穫であつた。 長塚節は大正のはじめ博多の九州大学医学部に歌人でもあつた久保猪之吉博士を訪れ、その世話で附属病院に入院し、喉頭結核の治療につとめながら、大正四年二九一五)二月八日に死んだが、その前年の大正三年十一月に福岡市から漂然と松崎を訪れたことを、遺稿歌集『鍼の如く』の
 芒の穂ほけたれば白しおしなべて霜は小笹にいたくふりけり
 の一首の歌の言葉書きに「二十九日、筑後の国なる松崎といふところに人をたづぬることありてつとめて立つ、おもはぬ霜ふかくおりたるに此の如きは冬にいりてはじめてなりといふ」と記してゐる。また「この日或る禅寺の庭に立ちて」として
 枳榠ともしく庭に落ちたるをひらひてあれど各めても聞かず
 たまたまは榾の楔をうちこみて縦の板挽く人もかへりみず
ともうたつてゐる。
しかしその日禅寺を訪れたほか、目的が何であつたかは皆目わかつてゐない。たとへば結核にきく特効薬があつたとか、知人がゐたとか、さういふ理由ではないかと思ひながら、これも吉岡老人に心当たりをたづねてみたが、これは宿場時代の話以上に手答へがなかつた。新らしい時代から日に日に見捨てられてゆくわたくしの故郷筑後松崎ではあるが、辛ふじて御番所跡の石垣がのこり、町辻の形がのこり、そして高山彦九郎や長塚節との因縁がそこにのこつてゐる以上、この確固とした歴史の実証をつぎの時代の踏み台として、ふたたび隆盛を迎へる日が来ないとは限らない。わたくしはさういふ有形無形の文化財を大切にすることが未来のためにどんなに必要かを故郷の人の二三に云ひのこして、今年の帰省の旅を終つた。

(昭和三十六年八月十日「西日本新聞」)

母の手鞠

 高山彦九郎正之が筑後久留米で自刃を決意して寛政五年六月二十七日に書きのこした歌に、「松崎の駅の長に問ふて知れ心筑紫の旅のあらまし」といふのがある。突然、高山彦九郎の名など出したのは、護国忠誠心のせゐではなく、わたくしの故郷がその筑後松崎宿だからである。曽祖父は宿場の小役人だつたといふことをきいたことがあるし、祖父は農業に従事し、明治五年生れの父は、農業は他人まかせで自分は好きな商業にいそしんだ。明治時代から陸軍に納入する米麦類を手びろく扱ひながら、家では田舎の小デパートのやうな店を出し、塩、砂糖、煙草、菓子、その他の日用品雑貨を売つた。わたくしは明治四十二年十月に生れた一人息子として、何の不自由もなく育てられた。宇太郎と名づけられて、その名付親が当時政友会の代議士だつた野田卯太郎(大塊)であつたことからも、父が政治にも手を出してゐたことがわかる。
 街道に面した母屋はわたくしが物心ついた頃すでに老朽した藁葺であつたから、江戸時代の建物であつたらう。その南側に瓦葺平屋の雑貨食料品などの店舗があり、そのまた南側に二階二間の客間のあるかなり大きな倉があつて、店舗と倉との間に通用門があつた。そこを通つて裏庭に出られた。裏庭はひろく、片隅に密柑や桃や柿や梨などの果樹園があり、一番奥の三百年位もたつた老楠のそびえる藪を背にして、農具の納屋と馬小舎があつた。馬は農耕馬でなく父の自慢の競走馬であつた。その馬の世話をしたり農事に従つたりする青年が一人やとはれてゐた。下男だが下男といはず「バボさん」と呼んだ。その語源はまだ調べたことがない。「バボさん」と炊事の女中さんを併せて農繁期になると五六人にもなつて、何時も朝餉や夕餉が賑やかだつた。
この生れた家に住んだのはわたくしが十一歳までである。同じ町内の桜馬場といふところに父は大きな家を建てて、もつとも古い母屋と店舗の一部をのこして倉などは移築した。老朽した曽ての母屋には他人が住んだ。わたくしが中学を卒業するまで義母に育てられた家屋敷は、父が昭和二年に亡くなつて、数年足らずで他人手に渡つて毀された。今のこつてゐるのはわたくしの生れたといふ家の、みすぼらしく老朽した母屋の一部だけになつてゐる。わたくしは祖先の展墓のために毎年一度は帰省するが、わたくしの生れたといふその家に、ひそかにではあるが必ず一度はお目にかかる。
その家の表の間のところで、わたくしは母の膝にもたれながら、母が軽く上に聾あげ手鞠を仰いで、きやつきやつとよろこびもだえてゐた。そのとたん、わたくしの躍にかかつてゐたするどい刺のある鯛の骨が、がつと口中にとび出したので、母はその時大声で家中の人達を呼ん頬に涙を浮べた。わたくしはけろりとしてまた手鞠を勉るやうに母にせがんだ。……そんな幼年時代の夢のやうな光景が、その家を眺めるたびに思ひ出されるのも奇妙である。後で聞くと、その時わたくしが鯛の骨を呑みこんだので一家中大騒ぎとなり手術をするより他はないといふことになつてゐたのだといふ。何とかして手術をずに吐き出させようと母は懸命に考へ、手鞠抛り上げてわたくしの咽喉を上向きにさせ、笑はせることを思ひついた。それが見事に適中してわたくしは鯛の骨を吐き出したのである。わたくしは手術の傷跡のない咽喉をさすりながら、自分の生れた家を眺め、母の愛を想ふ。母は一人息子の行末に思ひをのこしながら、わたくしが九歳のとき肺を患つて死んだ。

(昭和一二十六年九月号「朗」)

浮き世バンコ

 夕涼みで団扇をつかひながらのバンコ話はたのしいものであつた。夏になつても、今ではもう味はへない光景である。その愛惜のせゐだらう、ふとバンコのことがなつかしく思ひ出された。バンコといふ言葉は東京地方では耳にしないが、夕涼みなどで持ち運びの出来る縁台のことで、わたくしの故郷、九州筑後方面ではさう呼んでゐる。筑後柳河出身の北原白秋の好情小曲集『思ひ出』にもバンコが出る。
「柳河」といふ小曲の中に

裏のBANKOにゐる人は、…
ままむすめ
あれは隣の継娘。
継娘。
といふ一節があり、そのBANKOに、白秋は「縁台、葡萄牙語の転化か。」と註記してゐる。また「NOSKAIといふ小曲は
堀のBANKOをかたよせて
なにをおもふぞ、花あやめ
かをるゆふべに、しんなりと
ひとり出て見る、花あやめ。

 で、バンコが出るからやはりこれも夏の柳河風俗詩。花あやめは俗にノスカヒと呼んだ売春婦の隠楡である。バンコは白秋の註記のやうに、ポルトガル語やスペイン語のBancoが最もその発音に近い。オランダ語はBancoだから、やがてこれも混ったのかも知れないが、いづれにしても南蛮か紅毛語の転移した外来語で、長崎や平戸あたりから九州の一部にひろがつたのであらう。それを知らぬは亭主ばかりなりずに幼いわたくしは夏の夕方になると「バンばだ出そ!」ときほひ立ちながら自分の家の軒下から表の往還にバンコを持ち出したものである。バスやトラックなど通るわけでもなく、往還はひつそりと暮れてゆく。そのバンコには隣近所から白い浴衣がけのあんちゃん、あねしゃん、それにおばさん、おっちゃん達が団扇もって三三五五と集まり、夜のふけるのも忘れて浮世話に花が咲いた。少年のわたくしは網で小鳥でも獲るやうにバンコで大人を呼び寄せて、不可思議な大人の世界にきき耳をたてるのだつた。式亭三馬の『浮世床』ではないが、これはまさに「浮世バンコ」ともいふべき光景である。

 残念なことに、もうその折の大人の話はほとんど思ひ出せないが、たつた一つ、どうしても忘れられない話がある。わたくしの家は筑後の松崎といふ小さい城もあつた旧宿場町で、曽祖父あたりまでは宿場の小役人だつたらしい。祖父の代からかなり手広い百姓になり、父は百姓を使用人にまかして実業に打ち込んだ。わたくしが生れた頃は久留米聯隊に入れる米麦商のほか、塩、煙草などの専売物を扱つて、田舎の雑貨屋も営んでゐた。
 わたくしの名が同姓同音の明治の政治家野田大塊によつて名づけられてゐるやうに、父はもちろん政治にも熱を入れてゐたが、そのために家産を傾けるほどではなく、やはり実業が本命で、わたくしの生家の向ひにあつた二階屋を借りうけて料理店まで始めた。警察があつたり私立女学校があつたりする旧宿場町だつたから、日露戦争後の好景気の波に乗つて宴会場の必要が生じたのであらう。
 さすがに父も母も、一人息子のわたくしをいつも賑やかな料理店の方へはあまり近づけようとしなかつたが、そこにやとはれてくる白首のあねしやん達は、わたくしを忙しい母の手から奪いとることが多かつたらしい。わたくしはいつしか白首のやさしい女達になついて、その話をきくのが好きになつた。と云つても淫らな話をきいた覚えはないのだが。


 そのあねしやん達の一人がいつか夕涼みの浮世バンコに加はつて、自分が何か大手術をうけたとき経験したといふ不思議な話をはじめた。その手術が終りに近づいて、麻酔がさめかけた頃の経験らしい。
 …女は誰に誘はれるともなく、明るい庭のやうなところをせつせと真直に歩いてゐた。すると両側にはきれいなきれいな花が咲きこぽれて、それをとりたくなつたが、とつてはいけないので、ただまつすぐに歩いてゆくと、大きな門があつた。その門の前で立ち停り扉を押したが開かない。なほも懸命に女は押した。ぎいぎいときしめきの音はするが、だうしても開かない。女は途方にくれて、押す手をとめた。そのとき誰かが自分を呼ぶので、はつとふりかへると、……意識がもどつて、女は病院のベッドに寝てゐる自分に、やつと気づいた、といふのであつた。
 浮世バンコの人々はその話のあいだ中固睡を呑んでゐた。わたくしは好きなみかいやかの膝にもたれて、襲ひかかる睡魔とたたかひながら、終りまでそれを聞かうとして、月のない夜空で星がきらきら、さつきの女の通つた道の花のやうに輝くのを懸命ににらんでゐた。話が終ると、誰かが「もしぞか門があいとつたら…」と問ひかけた。女は「死んでしもうとつたでしよう」と小さく答へた。わたくしははつと眠気がさめるのを覚えた。
 父は一人息子のわたくしを医者にしようと考へてゐたらしいが、わたくしは医者にならなかつたから、麻酔でおこる幻覚がどんなものだか未だ知らない。それも薬によつて幻覚の種類が違ふのではないかと想像するだけで、まだ友人の医者にもたづねたことがない。しかし、戦前に手術を受けた人からは、これによく似た覚醒時の幻覚の話を聞く。そして最近の進歩した手術では、ただ麻酔中は楽だといふだけで、押しても開かない花の門の話はきいたことがない。


(昭和三十九年九月季刊「パアゴラ」)

秋のぼんぽり

 わたくしの故郷は九州の片田舎で、今はすつかりさびれてゐるが昔は街道筋の宿場町であつた。わたくしがまだそこに住んでゐた昭和のはじめ、中学時代の頃までは辛ふじて町の感じをとどめてゐたが、戦争このかた急にさびれて、今は宿屋一軒もないやうなさみしい部落に変りはててゐる。一人息子で父母を早く亡くしたわたくしは、中学を卒業すると問もなく故郷を離れねばならなかつたし、家屋敷も同時に失つてしまつたが、父母や祖父母の墓があるので、東京に落着いてからは毎年一度は必ず墓詣りのための帰省をするようになつた。それは大概夏か秋である。
 父母の墓詣りをすると、わたくしはもうすつかり子供にかへつてしまふ。そして真つ先に思ひ出すのはたのしいお祭りのことで、それもお宮へゆく長い参道に、上町、中町、下町と分れた子供連中が、一人一人ともうちわで藪蚊を追ひながら、自分の点した四角な紙貼りのぼんぽりを守らねばならなかつた宵祭りの光景である。夏の天神さま、秋の八幡さまのお祭りは、そのぼんぽりの宵があるのでいつも待ち遠しかつた。
 たまたま今年帰省した日は天神さまのお祭りだつたので、思ひ出はさつそくわたしを夜の小路に誘ひこんだ。お宮が近づくと、夜の向ふにぼおつと輝く明るい場所が見え、パンパンと棲き花火の音がしだいに大きくなつた。昔も今も変らぬ子供のお祭りといふ感じである。洗ひざらしのゆかたを着た少年が一人づつ、三十数年前と同じやうに、しつかりと自分のぼんぽりを守つて、お宮詣りの入々の足許をほのかに照らしてゐる。傍に立ち寄ると、ぽんぽりの表にはたどたどしい字で「御神燈」、その両側には「今月今夜」と、「下町子供中」と書かれたのが、あざやかに浮き出て、子供は無心な表情でぼんぼりの灯に顔を照らされながら露店から買つて来た花火に火をつけてゐた。
 わたくしはしばらく思ひ出の中に佇む気持だつた。三十数年前のさまざまな情景がよみがえつてきた。とくに秋の八幡さまのお祭りは、もうその年の最後のお祭でもあつたから一際賑やかだつた。わたくしは、自分の分担したぼんぽりの枠に白い半紙を貼りつけると、たつぷり墨をふくませた筆で、「御神燈」の文字をけんめいに書いた。それは習字の展覧会と云つてもよいほど、町中の人の噂にもなつたからである。わたくしは、たどたどしい子供の文字をみつめながら、しみじみと少年の日のよろこびを噛みしめた。
(昭和三十六年十月号「郵政」)

一人息子と従弟妹たち

 わたくしは父母が中年近くなつてやうやく生まれた一人息子だつたから、幼年時代は大変な甘えん坊でもあったらしい。しかし母はわたくしの小学二年生の春に亡くなり、父は中学四年生の冬に亡くなつた。

 それでも何とかわたくしが一人前の人間になれたのは、母亡きあと約十年足らずではあつたが、やさしい義母に何かと面倒をみてもらつたからである。母の病気は肺結核だつたから、父母相談の上、できるだけわたくしを母に近づけないやうにしてゐたらしい。わたくしをさみしがらせぬために気を配つてもらつたせゐか、母が町の病院へ入院のため家にゐなくなつてからも、わたくしは「おかあさーん」と云つて泣いたやうな記憶はない。すでに小学生の腕白盛りで、近所には悪戯ごつこの友達が数人ゐて、いつも一緒に遊んでゐたからだらうか。母には十歳も年下の妹がゐた。わたくしの唯一人の叔母である。叔母は遠い炭坑の町に住んでゐて、叔父は大きな炭坑の坑長であつた。そこにはわたくしより一つ年下を頭に五人の従弟妹たちがゐた。しかし話に聞くだけで、上の従弟が三歳、わたくしが四歳のころその従弟に一度会つただけだつた。町の病院に入院した母が一度快方に向つて退院したのは、わたくしが小学校一年生になつた、はじめての夏休みのころである。母は同じ町にあつた実家で療養することになつたので、わたくしは久しぶりに父に連れられて母に会ひに行つた。その時わたくしがどんなに母に甘えたか。

 しかしそれよりもわたくしを有頂点にしたのは、連絡がしてあつたとみえて、叔母と一緒に従弟妹たちも来ててゐたことである。わたくしは一番上の従弟のほかその妹と弟に会ふのははじめてのことで、母が病人であることも忘れるほどにはしやぎ、突然、弟や妹が現はれたやうな甘酸つぱい幸福を覚えた。相手にとつても、たつた一人の年上の従兄と会った幼い者たち特有のよろこびがあつたのだらう。家で騒いではいけないよといはれて、外の広場をかけずり回り、みな年上のわたくしにぞろぞろとついてくる従弟妹たちに、わたくしは自分の持つてゐるものは何でも惜し気なくやりたい気持になつた。さうして少しでも兄貴分の優越感を覚えようとしたのではない。ただ何でもやつて相手をよろこばせたい一念だつた。


 母が死に、父も死ぬころはもうわたくしは感傷的な青年になりかけてゐて、やうやく自分が一人ぼつちだと意識するやうになつた。だがそんな時、たとへ遠くにでも、はなやかな少女三人を加へた従弟妹たちがゐると思ふと、気持が妙に明るくなつた。大人になつてお互ひに違つた人生の道を辿るうち、その従弟妹たちの長男と長女は亡くなつたが、それでもふと従弟妹たちとはじめて一緒になつて、大事な母の病気さへ忘れるほど夢中で遊んだ幼い日のことをまざまざと思ひ出し、胸が急に熱くなることがあつた。裏を返すと、やはり自分には生涯兄もなければ姉もなく、弟も妹もゐない一人息子のさみしさが、いつまでもこびりついてゐたのだと、いまにして思ふことがある。(昭和四十八年十月号「赤ちゃんとママ」)

宝満川

 よく伸びて葉の両側が刃のやうに堅く鋭い青萱と、その葉の間からつややかに伸び立つて、はらりと周囲に銀の房を垂れる萱の穂は、わたくしの幼年時代の夏のよろこびの象徴と云つてよかつた。わたくしも混じる村の腕白どもは、青萱の茂る原や土手を走り回つた草いきれの強い萱の中を走ると、気づかぬうちに腕や足にすうつと一筋二筋、赤い血のにじんだ切り傷をのこした。自分の血のにぢみをみると急にちくちく傷み出すやうでもあつたが、小学校で強制的に行なはれた種痘の痛みにくらぶればたいしたこともなく、むづがゆいやうな膚の痛みの上を二、三度手でこすると、もう直つたのも同然だつた。翌日になるとその細い傷の上に黒い血のかたまりが点線のやうに続いて、それがとれると、陽やけした膚にそこだけ白い筋がのこつた。そんな切り傷も小学生のころは夏休みが終ると一夏のたのしい思ひ出となつた。


 宝満川はわたくしのふるさと松崎の近くでもつとも川幅が広く、白砂の多い水のきれいな川である。そ
こでは鮎や鮠や鯊や鮒などがよくとれた。まだ自分で釣りなどあまり出来ない幼少のころ、夏休みになつて朝からよい天気だと、父はしばしばわたくしを宝満川へ魚捕りにつれて行った。魚捕りと云つても、わたくしは父が釣りをする姿をみたことはない。きまつて投網漁であつた。大きくふつさりとした投網を、ときには肩にひよいと背負ひ、ときには愛用の自転車のハンドルにまとめて垂れかけ、うしろの荷台にわたくしを乗せて、いかにもたのしさうに軽々とペタルを踏んだ。好きなだけに、父の投網は子供の目にも上手だなあ、と感じた。左肩に網の一部をさらりとひろげかけ、右手で網のはしを振り、広い川の浅瀬に向つてゆらゆらとからだを揺つたかと思ふと、網は大きく空に円形を描きながら、さあつといふ音とともに水面におちる。父の左手首には網の手綱がしつかりと結びつけられてゐて、やがて、それを少しづつしづかに手前に引き寄せはじめる。そんなとき、父の手もとが、くつ、くつと小さく震へるやうに動く、と父は「ホウ!」と、さも感に堪えぬやうに小さな声をあげてわたくしの方を見る。そんなとき父よりもむしろわたくしの胸の方が、小躍りをはじめるのだつた。ぴちぴちと父の手もとの動きが大きくなると、網の中に銀鱗がきらきらとおどりはじめる。わたくしはそのときのよろこびの期待に駒を躍らせて、父と二人でいっも宝満川へ急いだ。行く先はたいてい県道箭の上岩田と大板井をつなぐ大板井橋のほとりだつた。県道を自転車で前方に長い緑の萱土手が見えると、それが宝満川の目印だつた。自転車は橋の手前の農家に預け、わたくしは投網を背負つた父のうしろから、萱の茂みを押しわけるやうにして白い美しい砂浜に駆け降りる。川原に着くまでの萱葉の膚ざはりと、銀の穂の美しいかがやきは、生涯わすれられさうにもない。

 上流から下流へ、投網を打つては魚をてぼに入れ、歩きつかれると父は必ず一休みして、わたくしと一緒に水泳をはじめた。少し流れの急な深い方へ連れて行っては、わたくしの両手を握つて、ぱちやぱちやとからだを浮かす練習をさせ、少し泳がせてわたくしがおぽれかかるとわたくしの手をぐつと引きあげてくれる。さうしてわたくしは少しづつ泳ぎを覚えた。ところでその大板井橋といふ木橋を通るには大人一銭、子供五厘の橋賃をとられ、大板井側の橋際にあつた茶屋に払った。道は県道でも橋は私設だつた大正五、六年ごろのことである。その後わたくしが朝倉
中学校に入学した大正の末期は、近くに太刀洗航空隊があつたので、その県道を中央軌道といふ軽便鉄道が三井郡小郡から太刀洗を経て朝倉郡寄居まで走り、道幅もひろげられ、橋はコンクリートになつて橋賃はいらなくなつてゐた。たまたま夏に墓参りに帰省して小郡の方から大板井橋を渡ると、宝満川の水はまだどうやら美しいが、川原には人影もなく、土手の萱はすつかり姿を消し、父を失つて早くも四十五年の歳月がたつてゐることを、あらためて思ひ出させるのである

(昭和四十七年六月二十三日、「西日本新聞」久留米広域圏特集版)