西南戦争と彼岸土居の戦い

      作:田熊正子   挿絵:
  新制度に不満を持つ旧藩士たちによって、西日本でも明治七年二月には、佐賀の乱が、翌々明治九年十月には、熊本神風連の乱、山口萩が勃発している。
 そしていよいよ、明治十年二月、西郷隆盛が率いる。薩摩軍が、熊本の鎮台を囲むに及んで、総督有栖川熾仁親王が率いる官軍二千人は、松崎の油屋を本陣として宿陣した。
松崎宿は、ここに西南戦争の軍事拠点となったのである。翌月の三月十日には、久留米の明善校に移るもそれまで静かだった松崎街道は、にわかに活気を取り戻した。いわゆる戦時特需である。
 官報「筑紫新聞」には「軍夫募集」が載り、その要項には、「身体強壮にして固疾なく物品運送ノ役ミ堪ユベキモノ」「戦地弾丸飛来ノ場所ヘ使役セラルルモ厭ハザルモノ」などと書かれて書かれていた。
 西郷軍に対する松崎街道筋の人々は、敵味方どちらとも云えなかったが、多数の農民が政府軍の軍夫として参加した。
 腕のいい職人が、一日四銭から六銭あったのに対し、飯炊き一日四十五銭、弾丸運びは、一円二十五銭という高い賃金だったので、奉公人まで、無断で飛び出して、危険の多い軍夫加わったのである。そこで、数百円の賃金を持ち帰り、土地を買い、家を新築する者も出た。
 官軍兵士と輸送隊二千人は、松崎宿だけでは収容できず、街道各所で民宿しなければならなかった。

「ヤンチキドッコイ、ホーライマーメ」
明治十年四月一日、熊本へ向かうため横隈村を通過する官軍輸送隊の掛け声が聞こえて来た。
乙隈村との村境である。
 鳥栖の警察署を襲って失敗した元福岡藩士の一隊と合流した、元秋月藩士合わせて約百五十名が昼食のため休んでいるところだった。
輸送隊が通りかかったので、弾薬と食料を奪おうとして、たちまち戦いが始まった。
官軍は彼岸土居に陣を取り、反乱軍は横隈西要水に陣を取った。渇水期で水がなく塹壕としては絶好の場所だった。
 その時、熊本へ向かうため南下していた広島鎮台の一個中隊が知らせを受けて、急遽、冷水峠を越えて引き返してきた。
 津古村を経て、横隈村の井の浦池付近に陣をとる。反乱軍は彼岸土居と井の浦から、挟み撃ちとなり、圧倒的多数の官軍の鉄砲に対し、日本刀での戦いは、反乱軍に三十二人の死者、重傷の十数名が捕らえて、戦いは終わる。
 官軍側は、輸送隊護衛兵士陸軍伍長、角南弥太郎(広島鎮台)二十八歳が、反乱軍によって、斬り殺された。

 横隈村の住民たちは、戦いが始まると、同時に弾丸よけの畳をかついで、如意輪寺の裏山へ避難していたが、「カチカチ カチカチ」という鉄砲の音がする中、生きた心地がしなかったという。戦いが終わったとき、如意輪寺の入り口にあったエノキの大木には、無数の弾丸の跡が残っていて、重傷を負った反乱軍の一人の兵士が自害して果てていた。寺ではその兵士の亡骸を葬りその上に大石を立ててやった。村人たちは、以来その大石を「誡の石」と呼んで線香を供えて弔った。

賊軍の兵士の中に、農家に匿われて、生きのびた者がいた。黒田藩を脱藩して、薩摩軍に加わり、秋月の支援隊として戦いに参加していた者だ。 命からがら横隈村一番の豪農だった浦清太郎の家へ助けを求めて逃げ込んできた。見れば、まだ若い。年を聞けば、「十八歳」だと答え、「今村為次郎」と名のった。
 浦家には、数個の蔵が建つていたが、そのうちの南向きの櫨を入れている櫨櫃(ダブス)の中に匿うってやった。息をするための竹の筒を当てがい数カ月にわたって食べ物を運んだ。内乱が終結して福岡の実家に帰る際に今村は、お礼にと「相州定宗」(正宗の父)の銘の入った刃渡り二尺二寸四分の刀一振りを置いて去っている。
 刀の柄には「藤原」の銘が刻み込まれていたという。今村は後に「外圓」と名改め、福岡日々新聞(西日本新聞)の編集局長を勤め、昭和の初期まで、馬に乗って、毎年年賀に浦家を訪れて来た。
元岡山藩士で、広島鎮台の兵士として戦死した、角南弥太郎の妻には二人の娘が残されていた。戦死公報には「筑前国御笠郡乙隈村で戦死とあり、妻は「死ぬまでに一度夫の戦死した場所を探し当てたい」と願っていたがかなわなかった。
 平成七年三月に、曾孫のか角南正志、節子夫妻が一行五名を小郡市職員が乙隈の彼岸土居に案内した。角南家では、弥太郎戦死後、百十四年目にして、インターネットによって、その戦死した場所を突きとめたのである。