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松崎宿は、近世のクロスロード!
時代の波に維新の志士たちも、薩摩街道行き来し松崎宿を利用たようです。
維新と言えば西郷や龍馬が有名ですが、久留米で自刃した思想家・高山彦九郎も来ていますし、薩摩藩の”お気に入り”の松崎宿は、寺田屋事件の文久2年の上洛のときも、久光・大久保・帯刀らが総勢千人規模で藩兵を引き連れ宿泊しています。(最近08に判明)
また、寺田屋事件の「首謀者の一人」真木泉と一緒に行動した樋口胖四郎がいます。
また高松凌雲や、兄、古屋佐久左衛門らがいる。
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1)高山彦九郎(1747〜1793)尊皇思想家
「寛政の3奇人」と呼ばれた。各地で勤王論を説き幕府の警戒を呼び一時日田で捕らえられ結局久留米の友人森嘉膳宅で自刃。吉田松陰はじめ幕末の志士に多くの影響を与えた。
寛政5年(1793)6月13日、死の2週間前に松崎宿の旅籠柳川屋に来ている。
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2)吉田松陰(1830-1859)長州藩士、思想家、教育家(松下村塾)、兵学者(藩校明倫館の兵学教授)、維新の理論家
松下村塾では、木戸、高杉、伊藤、山縣らを教える。安政6年(1859)安政の大獄で「老中暗殺計画」(間部詮勝)を自供して、斬首刑30歳だった。
松崎宿には嘉永3年(1850)と6年に2度訪れている。 |
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3)維新の先駆者・真木和泉守保臣(1813〜1864)久留米水天宮神官・勤王
真木泉も高山の影響を受けた一人。
文久2年(1862)久光が上京(松崎宿に泊まり大久保も一緒)すると京で活動を始める。
寺田屋事件に(文久2年:1862)関係し幽閉される。長州に接近。
合津と薩摩連合で長州追放の八月一八日の政変で長州に逃れ長州の一派と蛤御門の変を(元治元年:1864)起こし久坂玄瑞らとともに天王山で自害する。
薩長連合は、真木泉の発案といわれる。 墓は京都府大山崎町にある。
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4)平野国臣(1828〜1864)
福岡藩士尊皇志士。銅像が西公園にある。
先駆者だが幕史と新撰組に追いまくられた悲劇の一匹オオカミだったとか。伝承で油屋に宿泊している。
福岡藩で最初に尊皇倒幕を唱えた人で知られる。先祖は香椎宮の大宮司、でも足軽の次男。
いわゆる志士と天皇の密勅にも関わった清水寺の僧月照事件(安政5:1858)関わり薩摩に逃がす折の護衛を務める。西郷達と大隅に逃げる途中、西郷と月照が共に入水するも西郷は助けられ蘇生、月照は死亡する。これ以降西郷は奄美に潜むことになる。
平野はその後但馬挙兵に(文久3:1863)加わり捕らえられ
新撰組により刺殺されます。
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5)河合継之助(1827-66:長岡藩)
長岡藩家老、財政改革と日本海防備をまかされて軍備強化をはかる。日本に3台しか輸入されていなかった「ガトリンク砲」を2台も購入している。薩長は好かん!「武装中立」を蹴られた河合は戌辰戦争(明治:元/1868-1869)中最も激戦となる北越戦争を戦う。新政府軍5千、長岡藩1千3百、一端は押し戻したものの城を奪われるが再度取り戻すなど激戦の末破れ、落ち延びる途中、破傷風で死亡する。
夜道を久留米から松崎に来るすがらを書いている。
「天下に望まれる人になるか、あってはならぬひとになれ」(河合)
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6)樋口兄弟(胖四郎・良臣)
小郡市井上出身、真木泉とは親戚であったせいか、尊皇運動に参加する。
胖四郎は共に投獄されたこともある。高杉晋作とも提携。2人は、戌辰戦争時に藩に請願して応変隊を組織。
弟良臣は山筒隊と共に東京に赴いている(500人)。また久留米を出た部隊の半数は函館で戦ったが久留米に帰陣している。
胖四郎は久留米に残り出征しなかったが、その後、村長・初代県議会議員をつとめ48歳で死亡している。
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7)島津久光、大久保利通(右)、小松帯刀
文久2年(1862)は久光の卒兵上洛、寺田屋事件、生麦事件があった年、3月の上洛の際に松崎宿を利用している。鹿子島出発は24日、松崎には25日(雨)に宿泊し、26日(晴)に出発している。鹿子島から松崎までまる2日の行程である。
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