宿


新聞で紹介されました!

 

 松崎宿や歴史文化遺産保存会活動などの新聞・マスコミの主な紹介記事や取材の閲覧室です。
 他にもありましたらご連絡下さい。HPやブログで紹介されているものもありますが、省略させていただきます。今後リンク等を充実させていきます。


 「旅籠復興 初の写真展」

  朝日新聞(佐藤彰)2007/12.7

小郡市出身の詩人、野田宇太郎(1909〜84)ゆかりの旅籠(はたご)「鶴小屋」で16日から、宇太郎が生前にカメラに収めた古里の風景を今に伝える初の写真展が開かれる。23日の最終日には、鶴小屋を題材に地元の童話作家、田熊正子さんが創作した「鶴が来た村」の朗読会もある。関係者が足掛け5年かけ、台風禍の鶴小屋を修理するなどして開催にこぎ着けた。(佐藤彰)
宇太郎は1940年に上京し、雑誌「新風土」を編集。埋もれたままだった原稿「次郎物語」(下村湖人著)を世に送り出すなど、出版人としても活躍した。展示される写真は、宇太郎が全国各地の文化遺産や自然風土を保存するため、「文学散歩」を著していたころに撮影した約20点。地元の文学資料館に残されていた。
会場には、かつて宿場町として栄えた小郡市松崎に残る石垣「南構口(みなみ・かまえ・ぐち)」や、今はなき生家のたたずまい、両親の墓に至る道端の風景など昭和20〜40年代の写真を並べる。
鶴小屋は1895年に建てられた明治期の代表的な旅籠建築。道路を挟んだ真向かいが宇太郎の生家跡で、両親が一時期、鶴小屋を借りて料亭「松鶴楼」を経営していた。その後、商店などに使われたが、近年、空き家となってからは相次ぐ台風禍で瓦や板塀、土壁を破損。このほど修理を終えて、ようやく一般公開できるようになった。
鶴小屋は、今も家主である黒岩家が、江戸時代に筑後平野に飛来した鶴の番をした「御鶴番(お・つる・ばん)」を代々勤めていたことから、そう名付けられた。当時、鶴は高級食材で、殿様が鶴狩りに来たという記録も残っている。
「絵語り」と題した朗読会は23日午後3時半に開演。物語は、親子鶴を襲う鷹(たか)を身をていして追い払う少年「千代吉」の話。語りは筑後一円の小中学校などで読み聞かせ活動をしている福永厚子さん。地元の倉吉明美さんが描いた挿絵も映写する。イベントに合わせて「松崎宿イラストマップ」を手作りし、DVD「鶴が来た村」も制作した。


読売新聞 07/12.22

 「ちくご探偵団」

  文化財保護の出発点に
小郡市松崎の「鶴小屋」って?

旧薩摩街道の宿場町として栄えた小郡市松崎。最近、築百十三年の「鶴小屋」なる建物の扉が、八年ぶりに再び開いた-。なんでも、その「鶴小屋」は明治時代の旅籠だとか。  大正期には同市出身の詩人、野田宇太郎(一九〇九―八四)の両親が料亭として経営していたという。なにやら鶴小屋の扉の向こうには、歴史と文学の香りが…。探偵はさっそく鶴小屋の家宅捜索に乗り出した。

●130年、改築せぬまま
 西鉄小郡駅近くの探偵事務所から東へ車を走らせて約十分。古い町並みの松崎地区が見えてきた。  大通りから路地に入ると鶴小屋はあった。「建設から百十三年間、ほとんど改築せず、当時のままです」。鶴小屋の四代目所有者で、同市職員の黒岩勝正さん(五九)が出迎えてくれた。鶴小屋は一八九五年、黒岩さんの曾祖父、黒岩宗吉さんが建てた。木造二階で延べ床面積は約二百五十平方メートル。格子戸や、軒先を受ける水平材「持送り」など、明治期の代表的な旅籠建築だ。
 しかし旅籠なのになぜ"ツルの小屋"なの?郷土史などによると、松崎は江戸時代、ツルの飛来地だった。ツルは当時の高級食材で、黒岩家は代々、ツルの番をする「御鶴番」を務めていたことが由来だという。

●幼なじみと恋仲に
 ところで松崎といえば、詩集「北の部屋」「旅愁」や、多くの「文学散歩」を残した野田宇太郎の出身地。鶴小屋から道路を挟んだ向かいは宇太郎の生家跡だ。
「始まりは分かりませんが、宇太郎が十歳のころまでは、彼の両親がこの鶴小屋で料亭を営んでました」と黒岩さん。
 さらに話を聞くと、鶴小屋と宇太郎の縁は、料亭だけではなさそうだ。黒岩さんの祖父にあたり、鶴小屋の二代目の所有者には娘がいた。現在、八女市に住む竹中百合子さん(八六)。聞けば百合子さんと宇太郎は幼なじみで恋仲だったという。
 宇太郎は早稲田第一高等学院中退後、久留米市の明善高校近くで文房具店を開いた。店の二階で同市出身の詩人、丸山豊(一九五-八九)と詩作に没頭したという。
 百合子さんは「あまりもうからない」その店に足しげく通い、宇太郎を支えたという。同市の「野田宇太郎文学資料館」には、宇太郎と豊と百合子さんが蛍狩りに行ったことを記す書簡も残る。

●住民が遺志継いで
 とはいえ、各地で浮名を流したという宇太郎。百合子さんとの恋の成り行きは、みなさんのご想像にお任せして、話は再び鶴小屋へ。
鶴小屋は戦後、黒岩さんの父、松之助さんによって時計店となる。二〇〇〇年に松之助さんが亡くなり空き家となったが、その店先の扉を再び開くきっかけは〇五年、伝統的建造物が残る松崎地区が、県などが推奨する「景観モデル地区」に指定されたことだった。地元では市民が古い町並みを保存する取り組みを進めていた。「宇太郎ゆかりの旅籠をまちづくりの象徴に」と、鶴小屋を国の登録文化財に指定する運動も始まった。
 宇太郎は博物館「明治村」(愛知県犬山市)の建設や北原白秋生家の保存に積極的に動くなど、「文化財保護運動の先駆者でもあった」(黒岩さん)。そんな宇太郎の志を今、地元松崎の人たちが引き継ごうとしている。
  (西日本新聞 08年1月20日)。


 「鶴の里小郡童話で復活」

  朝日新聞(佐藤彰) 2008/4.12

 「自然豊かだった郷土知って」
 地元町おこしグループが絵本

 江戸時代には筑後平野に飛来していた鶴を題材にした創作章話「鶴が来た村」の絵本を、小郡市の町おこしグループ・松崎歴史文化遺産保存会が発行した。地元の童話作家とイラストレーターが、親子の鶴を襲う鷹を身をていして追い払う少年「千代吉」の活躍を描いた。「古里の歴史を再発見してほしい」と、地元の小中学校や図書館に寄贈するほか、希望者には「頒布」している。

童話を創作したのは同市三沢の田熊正子さん(72)。挿絵はこの絵本がデビュー作となる同市福童のイラストレーター倉吉明美さん(37)。地元の地名や江声時代の農家の暮らしぶり、自然の様子をわかりやすく紹介している。
物語の主人公は、体の弱い母のため、たらい船に粟って食用のフナを取る12歳の千代吉。大陸から渡ってきた親子鶴が水辺に降り立ち、父を亡くしたばかりの千代吉が、伸むつまじい鶴の一家をうらやましい気持ちで見とれていたときに事件が起きた。親子鶴を目がけ、鷹が矢のような速さで襲ってきた。
千代吉は石を投げて追い払ったが、次に千代吉を襲ってきたため草刈り鎌で応戦。気がつけば、鷹の鋭いつめで着物は引き裂かれ、肩から血がしたたり落ちていた。千代吉の心を痛めたのは、傷の痛みょりも着物の破れを嘆くであろう母の顔だった。
鶴が高級食材だった江戸時代には、物語の舞台となった同市松崎では鶴の飛来数を記録したり餌を与えたりする「御鶴番」の小屋があった。その名残で1895年に建てられた明治期の代表的な旅寵建築「鶴小屋」が今も地元に残っている。
先祖が御鶴番をつとめていたという松崎歴史文化遺産保存会の黒岩勝正事務局長(59)は「市内にはかつて鶴をはじめさまざまな水鳥が飛来した古飯大沼があり、今よりもっと自然が豊かだった。いにしえの古里に思いをはせ、自然の大切さを子どもたちに伝えたい」と話している。


「櫨で小郡町おこし」
きょうから 旧旅籠で企画展

朝日新聞(佐藤彰) 08/4.5

和ろうそくなどの原料となる櫨の大産地だった小郡市で、住民たちが櫨をキーワードにした町おこし活動をスタートさせた。第1弾は5、6の両臼、同市松崎の旧旅籠・鶴小屋で開かれる企画展「近世のジャパンワックス・ロードと伊吉櫨展」。地元出身の内山伊吉(1730〜1814)が品種改良して九州一円に広めた品種「伊吉櫨」の足跡を訪ね、今も朝倉市で作られている和ろうそくの芯などを展示して古里の歴史に光をあてる。入場無料。

副題は「薩摩秋月街道クロスロードは「木蝋の道!」

幕末の筑後では、櫨は米に次ぐ重要産物として栽培が盛況で、久留米藩に集まる櫨から作った木蝋の半分は小郡産だった。木蝋は海路や薩摩秋月街道を経て上方などに出荷された。今も木蝋は「煙の少ない和ろうそく」「高級化粧品」「お相撲さんの鬢付け油」などに使われているが、産地は熊本県水俣市や愛媛県内子町など数えるほど。小郡市内では現在確認されている伊吉櫨はわずかに3〜4本という。
櫨をキーワードにした活動を始めたのは、かつて木蝋業も営んでいた鶴小屋の今の家主で町おこしグループ「松崎歴史文化遺産保存会」事務局担当の黒岩勝正さん(59)。
伊吉櫨は、松山櫨老品種改良して作った品種。今後は松山櫨にスポットを当てて昨年から活動している久留米市田主丸町の住民グループ「松山櫨復活委員会」(矢野真由美幹事)と協刀して、櫨の保存やキャンドル作りなどのPR活動を繰り広げるという。
黒岩さんは「当時のハイテク技術『接ぎ木』で品質の高い苗木が生産され、松崎の技術者集団は薩摩にも指導に出向いた。歴史から忘れ去られようとしている伊吉櫨を現代によみがえらせ、元気な古里を再発見したい」と話している。


伊吉の技術伝える きょうから小郡で開催

 毎日新聞(平野美紀)08/4.5

 宿場として栄えた小郡市松崎の旅籠(はたご)跡の鶴小屋で5、6の両日、「近世のジャパンワックス・ロードと伊吉櫨(いきちはぜ)展」が開かれる。松崎歴史文化遺産保存会(三好睦慶会長)の主催。

 同会によると、ジャパンワックスとは、ハゼの実から採れた蝋(ろう)。幕末の筑後では米に次ぐ農産品としてハゼの栽培が行われ、小郡では内山伊吉(1730〜1814)が改良し、後に伊吉櫨と呼ばれる品種を筑後一円に広めた。接ぎ木などの高い技術は薩摩藩からも引き合いがくるほど。ハゼの実を絞り、取り出した木蝋(もくろう)は、大阪方面へ出荷されたという。 かつて松崎宿には木蝋業を営む店が複数あり、鶴小屋もその一つ。会場にはハゼが琉球から伝わった経緯や伊吉の技術などを伝えるパネル、現在も松崎地区に残る古木のパネルなど計約30点を展示する。

 「現在ではほとんど知られていない伊吉の功績を広めたい」と同会事務局の黒岩勝正さん(59)。開場は午前10時〜午後5時、入場無料。


 「伊吉櫨の歴史に光」 
小郡の松崎地区 櫨の宿場町PR
小郡市松崎の展示施設で企画展

 松崎地区に残る伊吉櫨を仰ぎ郷土の歴史に思いをはせる黒岩事務局長 江戸時代に和ろうそくの原料になる櫨(はぜ)栽培を普及させた小郡市出身の内山伊吉(いきち)(1730〜1814年)を顕彰する企画展「近世のジャパンワックス・ロードと伊吉櫨展」が5日から2日間の日程で、同市松崎の展示施設「鶴小屋」で開かれる。企画した松崎歴史文化遺産保存会の黒岩勝正事務局長(59)は「松崎地区が生蝋(きろう)生産で栄えた歴史に光を当て、昔ながらのたたずまいを残す地区を“櫨の宿場町”としてPRしたい」と話している。
内山は、久留米市田主丸町で栽培されていた「松山櫨」を品種改良し、低木で実の多い「伊吉櫨」を開発。久留米藩は、櫨の実を蒸して搾り出す生蝋を特産物とするため、伊吉櫨の栽培を奨励した。

 生蝋は「秋月街道」(久留米市―北九州市)を通って大阪まで運ばれ、ろうそくや口紅、ビン付け油の材料として重宝された。生蝋の半分は小郡一帯で生産。薩摩、長州藩も幕末、松崎地区から接ぎ木職人を招き、栽培したとされる。松崎地区での生蝋製造は昭和初期ごろまで続き、現在も市内数か所に伊吉櫨が残っている。

 保存会は、地元の歴史愛好家らでつくり、生蝋が運ばれた秋月街道や薩摩街道を「ワックス・ロード」と名付け、宿場町の歴史をまちづくりに生かそうと企画展を開くことにした。
 鶴小屋は昨年12月に展示施設に改装された松崎地区の旅籠(はたご)跡で、会場には和ろうそくや生蝋など約20点を展示する。
 
松山櫨の復活に取り組んでいる久留米市田主丸町、ホームページデザイナー矢野真由美さん(43)が櫨ろうで作ったろうそくやせっけんなどの即売会もある。
(2008年4月5日 読売新聞:河村輝樹)


小郡の町おこし団体NPO化記念
展示会や紙芝居


朝日新聞(佐藤彰) 08/10.17

小郡市の町おこしグループ「松崎歴史文化遺産保存会」が15日、町おこし団体では同市第1号となるNPO法人に登記された。これを記念し、地元出身の詩人野田宇太郎の生誕祭(26日)に合わせ、宇太郎ゆかりの旅籠跡「鶴小屋」で25〜26日、故人の足跡を伝える展示会や地元にまつわる紙芝居を催す。生誕100年を来年に控えたプレイベントを兼ねている。(佐藤彰)

鶴小屋は1895年に建てられた明治期の代表的な旅籠建築。道路を挟んだ真向かいに宇太郎(1909
-84)の生家があった。両親は一時期、鶴小屋を借りて料亭「松鶴楼」を営んでいた。
展示会「歴史と文学の散歩道」では、久留米市役所を退職して31歳で再び上京した宇太郎が翌年、埋もれていた原稿一次郎物語」(下村湖人著)を世に送り出すなど、出版人としての活躍ぶりなどを紹介する。
紙芝居覇に驚った赤ん坊」は26日午後1時から。物語は地元の花立山に住むキツネを題材にしたもので、保存会代表で童話作家田熊正子さん(72)H小郡市三沢が著した「松崎街道百年ぱなし」(全8話)の一話。絵は久留米市の小学校教諭「おーたけーこ」(ペンネーム)さんの作品で、小郡市の生涯学習グループ「たなぱた学遊倶楽部」が色付けした。筑前町の読み聞かせの会「虹の会」の竹中圭子さんが語り部を務める。
ほかに、米に次ぐ産物として幕末の筑後で栽培が盛んだった和ろうそくなどの原料、はぜ櫨にスポットを当てた「近世のジャパンワックス・ロード」展も開く。保存会の黒岩勝正事務局長(60)は「宇太郎生誕100年の節目を控え、忘れ去られがちな古里の歴史を見つめ直し、元気な町づくりを促すステップとしたい。今もタヌキやキツネに出くわす自然の豊かさも次代の子どもたちに伝えたい」と話している。問い合わせはNPO法人「松崎歴史文化遺産保存会」へ。


小郡に飛来鶴の歴史知って
旅籠「鶴小屋」で鶴の陶器展

小郡市松崎に残る明治期の代表的な旅籠(はたご)建築「鶴小屋」で4月3〜5日、「鶴の陶器展」が開かれる。佐賀県有田町で舞々谷工房を構える土居悟さん(30)、陽子さん(35)夫妻が制作した鶴の絵柄をあしらった作品などを展示、かつて筑後平野に飛来していた鶴にまつわる古里の歴史に思いをはせる。
鶴が高級食材だった江戸時代、同市松崎には鶴の飛来数を記録したり、餌を与えたりする「御鶴番(おつるばん)」の小屋があった。鶴小屋は、その名残で1895年に建てられたという。
先祖が御鶴番を務めた松崎歴史文化遺産保存会の黒岩勝正事務局長(60)らが「昔はお祝い事といえば鶴亀。近年、見かける機会が減っている鶴の陶器を鑑賞し、古里を再発見するきっかけに」と、市内外からの行楽客でにぎわう5日の松崎桜祭りに合わせて企画した。土居さん夫妻は佐賀県立有田窯業大学校を卒業し、4年前に窯を開いた。悟さんがろくろを回し、陽子さんが絵付けをして有田焼の伝統を踏まえた白磁の食器や花器などを中心に作陶に励んでいる。2人とも九州山口陶磁展で入賞したこともある。


2011年10月秋に「狐に貰った赤ん坊」を出版、毎日新聞の記事
 

これまでの鶴小屋「有形登録申請」の経緯


2011年 7月4日 登録推薦の申請依頼を行う
2011年12月6日 文化財保護審議会の調査:鶴小屋、とびうめ(壹岐裕志委員長)
2012年 6月上旬 小郡市文化財審議会開催(答申?)
2012年 7月 とびうめ市登録文化財指定


 2012年8月でまる一年が経過しました。小郡市の市指定の「建物」文化財としては、油屋についで「とび梅」が2棟めです。小郡市には国指定の「有形登録文化財」はありません。
 福岡県そのものが少なく全国で下から2番目、関西周辺と比較して5〜600棟に比して一桁少なく極端に少ないのが現状です。そのため福岡では団体が活動をはじめました。もっとも市指定等他の指定を受けている建物の国指定有形登録文化財指定は受けることが出来ないなどの制限があります。

 果たしてこの先「鶴小屋」の有形登録申請は.....!

 
 

 「宇太郎の曲CDに」

2012年5月に、山田ヤ子さん作曲のCDを作成したときの毎日新聞記事

 宇太郎生誕百国の時、山田先生の3曲と三井高等学校校歌が未収録だったので録音収録させていただきました。

三井高校は山田先生当時は校歌作曲の平田忠吾先生指導の下「女声合唱団」が活躍し、朝高新任の鞭先生も指導されたとか、毎日が「楽しかった」そうです。今回在校生にお願いしてめでたく録音収録となりました。
 宇太郎選曲集:Selection2として秋にリリースする予定です。12年の宇太郎祭には、CDにも収録した
山田ヤ子先生の娘さん、柳原千草さん、小日向由起子さんで「松崎の道コンサート」で素晴らしい歌声をご披露してくださいます。

詳細はイベントコーナーをご覧下さい。