鶴小屋歴史資料室

 鶴小屋の始まりは、松崎宿の歴史に重なります。近畿地方の丹波から有馬豊範氏が「鶴崎」に一緒に来たことからはじまります。

 歴史は古いものの文書類等が残されておらず、周辺の調査でかろうじてその概要がわかる程度です。鶴小屋とも縁のある柳勇氏が長年の調査で黒岩家が久留米藩に提出した「由緒書」を久留米図書館で発見したことで,ある程度詳細にわかるようになりました。
 その他「井上文書」に時の将軍からの「鶴」のお礼の文書が発見されています。鶴小屋の建設は、鶴の飛来が少なくなって「お鶴番」が出来なくなったころから始まったようです。

 また、野田宇太郎の生家が真向かいに有ったため幼少期に両親が借り受けて「松鶴楼」という料亭をしたことが知られています。
 以後、明治・大正・昭和・平成と住み続けられ現在に至っています。

旅籠「鶴小屋」が臨時公開!

公開を!の声にほぼ5年をかけ古の雰囲気そのままに、07年11月11日臨時公開しました。

「歴史と文学の散歩道」
1 鶴小屋(明治期の代表的旅籠建築)
2 松鶴楼(野田宇太郎ゆかりの料亭)
3 鶴が来た村(松崎百年ばなし)
4 千代吉(鶴小屋キャラクター少年)
をどうぞ宜しく!

写真は「鶴小屋」内部階段、建具の一部は建築当時そのままに残っています。
中に入れば、明治そのままにタイムスリップしたかのような雰囲気です。

公開は随時行います。当保存会、文化財、地区公民館等にご連絡ください。行事や不定期公開は当ホームページにて告知いたします。


 鶴小屋の「由緒書」(1851年)

久留米図書館蔵)

嘉永四亥年
丹波より御入部の節御当地え
引越代々相続の筋目書上帳

下岩田村
  御飼鶴番
五月 卯市

 申上覚

丹波より御入部の節御当地え引越、代々相続之筋目分明成類、且格別の由然御座候家筋、或ハ抜群二功業相立候義御座候類申上候様被仰渡奉畏候、委敷相分り不申候得共乍恐左二申上候、然処元和六申年御原郡下岩田村分の内沖と申所え御鶴塒御取立二相成、元文十戌年同郡下高橋村の内大園と申所え御引直シニ相成申候、番人の儀、私先祖吉兵衛と申者、元和六申年より貞享元子年迄六拾五ケ年相勤、同二丑年より享保四亥年迄伜八左衛門三拾五ケ年相勤罷在候処、同五子年御巡見御下向の節、三潴郡西牟田沖え御座候御鶴塒同然御除ケ、御鶴の儀は御放二相成、右子一ケ年御鶴番相止ミ、同六丑年又々下岩田村分只今の所え御取立二相成申候二付、同年より同二十卯年迄都て五拾年相勤、元文元辰年より宝暦十辰年迄同人孫伝左衛門弐拾五ケ年相勤、同十一巳年より享和二戌年迄右伝左衛門伜孫左衛門四拾弐ケ年相勤、同三亥年より文政八酉年迄右孫左衛門伜私祖父卯平次弐拾三ケ年相勤、同九戌年より嘉永元申年迄私親和作弐拾三ケ年相勤、同二酉年より当亥年迄私相勤罷在申候、然処元和六申年より当亥年迄弐百三拾ニケ年二罷在候得共、享保五子年壱ケ年御鶴無御座候二付、弐百三拾一ケ年私迄七代御鶴番相勤罷在申候、尤丹波より御供仕御国え罷越候者の由伝へ及承り申候、右の段御吟味二付申上候、則別紙年数調子相添差上申候、以上

下岩田村分
御鶴番
嘉永四亥年五月
卯 市 印

御郡方様


元禄の鶴小屋報告

真鶴 八羽
(マナズル:ツル科、顔が赤い、出水のマナズルは有名)
袖黒 壱羽
白鳥 三羽
菱喰 弐羽 
(菱喰:ガンカモ科、天然記念物、菱を食べる。)
※有馬内蔵助の執務関係日誌)の元禄4年(1691)11月29日の日記が報告されている。

 今はもう飛来しなくなった、真鶴が多かったこと。ヒシクイが食べるヒシが生育する池沼があった事を覗わせます。古飯沼一帯の大湿原と馬風流(だぶりゅー)池などに多くの水鳥が飛来していたのでしょう。

マナズル(首筋が一部黒い)

 ソデグロズル(首筋は白い)

 ヒシクイ(中型の水鳥)


領主の特権であった鷹狩り

 この鷹狩りとは、鷲・鷹・隼(はやぶさ)などの鳥を訓練調教して鶴・雁・鷺や野兎等の獲物を捕らえさせるという狩猟方法で、ヨーロッパや中国でも古くから行われていました。
 鷹狩りは、江戸時代の封建制度を維持するための「壮大な政治的な贈答制度」です。また武家たちも軍事訓練と娯楽も兼ねて、鷹狩りを盛んに行いました。ですから、鷹狩りは誰にでも許されていたわけではありません。将軍と紀伊・尾張・水戸の徳川御三家のほか有力大名に限られ、それぞれ専用の狩場が定められていました。この狩場を鷹場(たかば)と言います。
 
 久留米藩の鷹場はよく分かっていませんが、下岩田・古飯沼周辺、西牟田などが分かっています。
また他の大名の領地にまで及んで鷹場が設けらることもあり、紀州徳川家などは伊勢国だけでなく、街道沿い一里以内の鷹狩りを許されており、参勤交代途上での鷹狩りも行っていたようです。
 
 鷹狩りは江戸時代においては立派な「鷹狩り制度」として確立していました。鳥見(とりみ)役とか鶴飼付(つるえづけ)役,とかいった役人を配置して、密猟者の取締りや鶴の餌付け、鷹の訓練に当らせ、鷹狩に備えていました。獲物にも格付けがあり、鶴は最上とされ、捕獲にも許可が必要でした。また、将軍から鶴を拝領するのは名誉なこととされました。このことからも鶴は特別な存在だったことがわかります。
 「御飼鶴番」が鷹狩り制度上、どのような役割を負っていたかその仕事の範囲等詳しいことは、今後の研究課題として残っています。


鶴小屋の位置

 「由緒書」で特定された鶴小屋の前身、おそらくは武家屋敷があった「沖」(小字)。現在はやはり下岩田ではなく松崎在住の人達の所有になっている。
 今でも地元の人々は、この場所のことを「鶴小屋分」と言う呼び方をする。伝承はやはり生きている。
 「お鶴番」が、具体的にどんな仕事をしていたのかまだ調査が進んでいないものの、もっと高台に位置すると思っていただけに少し意外な気がする。場所からすると相当広い範囲にあったらしく、仕事としては「見張り番」等だけではなく、規模的に一時的に捕獲したものの「飼育」や「加工」などもあったのではないかと想起される。

 この後、今の大刀洗町・下高橋・大園に移転した後、松崎に引っ越している。現在の「旅籠鶴小屋」は、明治28年に建っているので、それ以前の建物の詳細は不明である。

 右図は、最初の「鶴小屋跡」今は一面水田が広がる。北側は丘陵地になっていて、ここからは南の展望がいいところだ。ちなみに北東部からの進入路は「打上り」で急な登り坂を表している。


鶴小屋の移転

元文十戌年(1738年)下高橋村の大園の鶴小屋の位置


最初の場所よりかなり南方に移転している。当初、下高橋の旧官が跡付近ではと思われていたがずっと南だったことが判明した。

ちょど石原川と大刀洗川の合流地点付近である。下高橋の古老にお聞きしたところ、大園の北あたりに鶴小屋があったと聞いている(2007.3)という。ここは既に圃場整備で水田になっており遺跡は既に失われている。文書と伝承が残っているだけである。

下岩田から百年以上たって鶴の飛来が減少し南下したものと思われる。あらためて
由緒書きが裏付けられたかっこうである。伝承のすごさを再認識させられた。

おそらくは、大刀洗川も以前は、川幅も現在より広く鶴も飛来していたのでここまで南下したのであろう。現在でも、数羽は飛来しているのを見ることができる。鶴もまだ悠久の記憶が残っているのだろうか。鴨は現在も相当数が飛来する。

鶴小屋と古飯沼


 
古飯の東一帯、現在の下高橋から上野もっと東までかもしれないが、大きな沼があったとされる。現在の宝満川(得川)は下岩田の馬風流(だぶりゅー)池を通り古飯沼にそそいでいたという。

 菊池武光が筑後川を渡河、古飯沼を渡ろうとしたが沼の中に通じる3本の道を切断され小弐尚勢には容易に近づけなかったと言う。(北南朝時代に争った「太平記」ちなみに規模において日本の3大合戦だそうだ。その規模10万人)
ちょうど宝満川と大刀洗川に挟まれるようにあった一大湿地帯「川中島」だったようだ。

 この広大な沼と池のほとりに鶴番小屋はあったことになる。(右図)うーむむ、見てみたい!!
 そう思いつつ旧本郷道の途中まで歩いてみた。現在の道は直線だが、松崎から出るとすぐくねくねと曲がった道だ。樹や田んぼの境界、池や川を避けるように作られているのが分かる。
ほんとうに「風情がある道」だ。
 途中、大刀洗川沿いに降りる道がある。そこに今は放棄された田んぼがあった。だが道の湾曲が実にすばらしい。今となってはこんな道は想像もできまい。一面結構広い芦原だ。一瞬古飯沼を想像せずにはいられない場所だ。小さな清水も流れている。カワセミが小魚狙っているところを見ると清流には違いなかった。
(場所は大刀洗町鵜木付近行ってみたい人はここ(N33度23分16秒,E130度35分56秒)たぬきでも出そうなすごい所、くれぐれも化かされ無きよう!)


字名で残る大刀洗町下高橋「大園」付近

 
遠景は、三郡山と花立山今は長閑な水田が広がる。鶴の姿は数羽まれに見ることができるだけである。左が石原川である。
 この一帯は、昔は沼地ただ年代を重ねると沼は人口増による水田開発等で水量が減少し南下したと思われる。


大園;130°34′56.02″N33°22′09.45″


薩摩街道松崎宿の再生
旅籠「鶴小屋」の整備活用計画
江夏 治樹 (九州芸工大)

 宝満川中流と大刀洗川に挟まれた台地に位置する小郡市松崎は、薩摩街道沿いに残る宿場町の一つである。かつては宿場町として多くの人が利用した松崎宿であるが、現在では宿場町時代の繁栄は失われ、この地を訪れる人はほとんどいない。しかし町の出入口に残る構口や宿場町時代の面影を残す旅籠の数々など、今もなお町に残る歴史的建造物のなかには他の地域にはない特徴を持ったものも多く、その質は高いものばかりである。そこで本計画では、町に残された旅籠を再生させることで、松崎宿に新たな魅力をつくり出すための糸口をつくることを目的とする。
鶴小屋・平面図

 北部(左)が一間分欠けている。

ちょうど、旅客の大型の荷物置き場になっていた部分である。
玄関は、二間の吊り上げ戸になっている。入るとすぐ土間。一番奥(上)が座敷である。
右は二階部分で三間とも客間として利用した。


鶴小屋と幻の「小判石畳」

 鶴小屋正面の「雨だれ避け石畳」が損傷を免れ比較的良好な状態で残されている。
 しかし松崎宿はおろか久留米・草野地区などにもほとんど見あたらない。一部修復の必要もあって筑後川一帯を2011年に歴文保存会によって調査が行われた。そして意外な事実が判明するのである。 その要点は
 (1)筑後地方の他に数棟現存する。建築年代は江戸後期から明治初期の建物である。
 (2)施工に利用される「小判石」(平丸石)は筑後変成岩(砂質準片岩)と呼ばれ利用される石材は極めて限られた場所にしか産しない。その扁平率によって採集場所が特定出来る程である。さらに驚嘆すべきは建築当時とほぼ同一場所から採取したものと推定できることである。


 (3)文化財修復保存上も特に重要である。

 上が鶴小屋の小判石敷石畳、下が高山邸の石畳(田主丸・江戸末期,鶴小屋より上流)である。鶴小屋の物より丸みがあるが、ほぼ完全なかたちで残っている。おもしろい事に産地に一番近い所では、現在残っていない。
 施工は難しく、同型の石の採取が不可欠であり草等の防止のため縦にきれいに敷き詰める必要が有り手間のかかる仕事となる
 他に、神社・お寺に施工例があるが、球形大玉(約20cm前後が多い)であり、何か意味があると思われるが、民家への使用例は、見あたらなかった。何れにしても地域を熟知した素晴らしい職人集団の失われた技術に感嘆する他はない。
  2011.4.3。



 鶴小屋の平丸石敷石畳(横扁平率0.76)

 高山邸の平丸石敷の見事な玄関の石畳(田主丸・江戸末期)
(横扁平率0.66)


現鶴小屋の棟札の発見

 明治28年建てを示す棟札が2003年の九州芸工大の調査で再発見された。

大工:御原郡立石村大字松崎
    高原岩吉
戸主:黒岩宗吉

とある。地元の大工さんで建てたようだ。
しかし、この大工さんの末裔は不明だ。


旅籠鶴小屋時代の漆器類

数は少ないが旅籠を偲ばせる漆器類が残されている。

その他

上は南構口(野田氏撮影)