宿


筑後松崎宿のはじまりは寛文八年の有馬分知です。そして宿駅制度で発展しました。
平成17年には、国交省の筑後の「景観モデル地区」に指定されました。

 松崎は1669年(寛文八年)有馬豊範が19ヶ村一万石の分知を受け鶴崎に城を築き、名を「松崎」と改めたのが始まりです。 
 松崎藩の設置にともない、北は山家宿、南は府中(久留米)至る街道が参勤交代道定められ松崎は宿駅制度のもとで宿場町として整備されていきました。筑後3宿は府中、松崎、羽犬塚。
 松崎宿に宿泊した人々に、西郷隆盛、伊能忠敬、高山彦九郎などがいたといいます。
 1866年の文書によると、松崎宿の総戸数は129軒、旅籠26軒、煮売屋6軒があり、藩主や大名を宿泊させる御茶屋があり、手紙の配達や物資運搬を行う駅伝もありました。宿場運営には庄屋・町別当らによる合議制で行われていました。
 しかし、明治二年(1869年)関所の廃止、明治三年(1870年)本陣の廃止、そして明治五年(1872年)宿駅制度が廃止(宿駅と助郷制度の廃止)
されると衰退していきましたが、大正・昭和初期までは、まだ名残があったといいます。

 

 

どんな旅人が訪れたのでしょう.....    
松崎旅籠油屋(小郡市指定有形文化財)
 全国に4つしかないアニメ映画「千と千尋の神隠し」に出てくる油屋の一つ。江戸時代後期の建築といわれる大型の旅館建築で脇本陣並の施設を備えている。西郷隆盛なども宿泊したという伝承が残されている。

旅籠一松屋
 かって郵便局として使われていたため表側は改築を受け本来の旅籠の面影は失われているが奥側は、建築当初の構造を残している。郵便局のプレートが残されていてNo30番代で比較的古いのだと言う。明治初期の宿帳が残されている。

御茶屋跡
 御茶屋は、藩主が休泊する施設で参勤交代で行き交う大名も利用した。松崎宿では「茶屋守り」をおいて共同で運営され、明治維新後学校としても利用された。現存するのは土蔵である。

旅籠鶴小屋
 明治28年に建築された明治期の代表的旅籠。参勤交代廃止後も明治期に薩摩街道として官僚なども宿泊していたらしく落書きが残されている。
 また、文学だけでなく歴史文化遺産保存運動の先駆者でもあった、野田宇太郎家族が一時期、料亭「鐘鶴楼」として使っていたことでも有名、「浮世バンコの料理店」に出てくる。宇太郎は明治村の創立、白秋生家保存など全国で活躍している。

柳川屋

現存しないが、高山彦九郎が寛政五年六月十三日筑後国御原郡松崎駅に至る。薩の宿割児玉氏なるが柳川屋に宿り居る。立寄て北川氏なるに逢ひ、幸作処に宿りす」は松崎宿の柳川屋である。
(文書・記録) 西暦 旅人たち 人物画像など
元禄5年 1692 エンゲルベルト・ケンペル(長崎オランダ商館医官)
文化9年 1812 伊能忠敬 

に依井―新町―鵜木―松崎間の測量時に松崎宿に宿泊している。
人数も多かったらしく、薩摩屋、大阪屋に宿泊している。
嘉永3,6年 1850 吉田松陰
嘉永5年 1852 島津済彬(参府御供日記・済彬公史第4巻)
嘉永6年 1853 篤姫江戸へ輿入れの旅(泊は不明)
8月21日鹿子島を出発約10日間かかって松崎に着いたようです。
安政2年 1855 肝付尚五郎(08年NHK大河ドラマ篤姫の友人で登場)
尚五郎日記(鹿児島県史料集)、”宿継ぎして山家に”
安政5年 1858 高山彦九郎
死の2週間前、松崎宿・柳川屋に来る。
安政6年 1859 河合継之助(長岡藩家老)
文久2年 1862 島津久光(右)、小松帯刀(下)、大久保一蔵(利通)らが8軒に宿泊
3/14鹿児島、3/15瀬高、3/16松崎、3/17飯塚、18黒崎松崎宿まで丸2日かかっている。(大久保日記、文久2年天下の機勢風聞諜)、島津藩は松崎宿をよく利用している。


寺田屋事件。文久2年4月23日(1862年5月29日)に薩摩藩尊皇派が島津久光によって粛清された事件。藩兵千人を連れての上洛で大久保、帯刀も同行している。この時大久保は説得役だが失敗している。この時の有名な上洛である。(上)
文久2年1月15日は坂下門外の変、文久3年は薩英戦争、激動期の旅だった。

この後、篤姫の時代考証を行った鹿児島大の原口教授の樋口文書の資料提供により約半数の兵と松崎宿泊が文書によって確認された。


慶応3年 1867 東久世
明治10年 1877 (西南戦争)
乃木希典(右)
有栖川宮熾仁親王(総督)
(伝承)
西郷隆盛

油屋での犬の話は有名。
平野国臣

福岡藩士・尊皇派、福岡藩で最初に決起する。
西郷との「月照事件」で有名。


松崎宿を訪れた旅人
篤姫

 24歳で未亡人となる。彼女がいなければ徳川、静岡県はなかったといわれる。
家定への輿入れは嘉永6年(1853)8月松崎宿をよく利用した薩摩藩だ。宿泊した可能性は大きい。
島津済彬
小松帯刀

篤姫とは同い年、後に家老職をつとめるるが大久保を重用したと言う。ドラマでは篤姫に恋心を抱く設定だ。旅の途中でよく歌を詠んだとか。
大久保一蔵(利通)

 言わずと知れた幕末に活躍する人物。風雲告げる文久2年には松崎宿に、久光、小松帯刀らと共に宿泊している。
 参勤交代で、薩摩・熊本・人吉藩は松崎宿をよく利用しました。旅の行程で丁度よかったことと、旅籠の整備・規模が必要だったからです。人数は制度上決められていたようで、薩摩藩などは一千人規模だったといいます。
 08年NHK大河ドラマ篤姫の時代考証をされた、原口教授(鹿子島大・日本史)の史料によると、篤姫も薩摩街道を途中大叔父の黒田藩に寄って(かも)?輿入れしたようです。文久年間には島津久光とともに小松帯刀尚五郎)大久保利通らも、松崎宿に宿泊しています。
薩摩藩は松崎宿がお気に入りだった?!